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日本海中技術振興会 設立者紹介

Profile

 

佐藤矩郎 さとうのりお

本名:佐藤教雄

1943年、愛知県名古屋市生まれ

1967年、愛知工業大学電気工学科卒在学中に独学でダイビングをはじめ、

1967年に設立された中部日本潜水連盟で活躍するようになり

1981年、同連盟の会長と同時に全日本潜水連盟副理事長に就任。

1983年、(株)アルタバディマリンを設立。

1985年、中部潜水連盟をCMASに加盟させ、翌年同連盟の教育部門を切り離て全国組織としての日本海中技術振興会(JCS)を設立。会長に就任する。

1997年にはTDI JAPANを設立し会長に就任。

その他、主な役職はNPO法人環境教育技術振興会会長、(社)レジャー・スポーツダイビング産業協会副会長、(財)日本海洋レジャー安全・振興協会評議員、DAN JAPAN実行委員、(財)社会スポーツセンター評議員、文部大臣認定指導員資格付与実行委員。

佐藤教雄前会長

マリンダイビング創刊35周年記念特別インタビュー 記事より

 マリンダイビングフェアはもとより、国

内外で開催されるダイビングのイベントで

ほぼ必ず顔を見せる、ダイビング業界の重

鎮がいる。本誌創刊の頃から、いや、それ

以前から、日本におけるスクーバダイビン

グの発展に力を注いでこられた方ばかりで

ある。その中の一人、佐藤矩郎さんは、

JCS会長のみならず、さまざまなダイビ

ング関連業界で長になり、役員や理事にな

りと、活躍されている方だ。ダイビング業

界にちょっと足を踏み入れた方なら、おそ

らく接することになるであろう佐藤さんと

は、一体どんな方なのだろう。

「私がダイビングを始めたのは、大学を卒

業する直前くらいですから、昭和40年くら

いのこと。学生時代にヨット部を設立し、

名古屋から伊豆大島などに行っていました。

その少し前に、学習塾を設立していて、生

徒が200人ぐらいいたんですよ。大学に

半分だしてもらって、クルーザーを買って、

あちこちに行ったものです。ただ食事をす

るにもおかずがない。魚を釣ったり、網で

捕ったりしていたんですが、これがなかな

か捕れない。あるとき伊豆大島の岡田港に

寄ったときに、港にいたら海の中からヘル

メットダイバーが出てきた。よく見ると腰

に魚をいっぱいつけているんですよ。〝こ

だ!〟って思って、名古屋に帰ってすぐ

具を買ったんですよ、潜水の。それで始

たのがきっかけですね。」

   1965年ころの話である。スクーバダ

ビングの器材は売っていても、それを教

るスクールはまだない時代だ。

「その当時、《日本アクアラング》の名古

営業所があって、器材を買うときにどう

けるかだけは教えてくれました。今でい

​レギュレーターをタンクのバルブに〝

付けると、ここにセカンドステージが出

くるから、これを吸えば空気が来るよ〟

〝わかった、わかった〟って、5分くらい

魚が捕りたくて
​ダイバーになった⁉

だったかな。当時はタンクを貸してくれる

サービスもないから、タンクを2本買って、3点セットとウエットスーツと器材で全部

13万円ぐらいでした。

 それで最初に浜名湖に行ったんですよ。

今の女房と結婚する前だったんだけど、一

緒に連れて行って、で〝1時間経って上が

ってこなければ警察を呼んでくれ〟と言っ

て、勝手に入っていったものです。高校ま

では水泳部だったし、小さい頃から素潜り

で4~5㍍ぐらいまで行っていたから全然

怖くはなかったんですね。

 で、これはスゴイ! と思ってね、今度

は海に行ったんです。

 でもトラブルが何もなかったからよかっ

たけれど、減圧症とかエンボ、窒素酔いと

、まったく知らなかった。ただ何も知ら

ないで行くのも不安だから、本屋さんに行

ったら、スクーバダイビングのことがちょ

こっと書いてある本があったんですよ。そ

れで減圧症とか窒素酔いというのがあるん

だ…と(笑)。空気のタンクだと70㍍ぐら

いまでは行けるとかいうのが書いてあって、

​それなら大丈夫だろうと、それ以降も一人

でず~っと3~4年間潜っていました。」

 その間、大学を卒業し、塾を経営してい

たこともあって〝お金儲けは簡単にできる

から、商売の勉強をしよう〟と〈丸二商

店〉、いわゆる米屋さんに就職した。とこ

が、結婚を考えた際に就職先が障害とな

り、2年間務めた末に退社、予備校の物理、

学の教師となる。

「学校の先生をやっていても、また海が好

きだから、どうしても海に関係のある仕事

がしたくてね。で、海運会社に入ったんで

すよ。居心地がよくてそのこ10年ぐらいい

たんですが、その間、毎週ダイビングばっ

かりやっていました。

​ 一人で潜ってばかりいたからちょうど仲

間が欲しかったのですが、会社に入ってす

ぐ、あるお店に行ったら『MKKダイバー

ズクラブ』というクラブの募集があったん

です。すぐ入会しましたよ。そこでやっと 

アマチュアでスタートした組織が
​世界規模のダイビング指導団体に

 その当時、フリッパーレースでスピード

を競う競技やスピアフィッシングの競技な

ど、さまざまな大会も行なわれ、中部日本

潜水連盟だけでの大会でも500~600

人、全国大会では1000人、2000人

集まることもあったという。日本における

スクーバダイビング人口は、佐藤さんが始

めた頃に比べてがぜん増加していた。

「ただその頃は、釣り具や喫茶店との兼業

のショップに、買った器材を預けておいて、

クラブを作って、そのクラブのトップが新

たな人たちにダイビングを教えるというス

タイルだったから、教える人はボランティ

ア。アマチュアだから、みんなほかの仕事

をやっていて、土曜日、日曜日にダイビン

グを教えることになるわけです。

会社員をしながら
​中部日本潜水連盟の会長に

仲間ができて、その時はやはりうれしか

ったですね。

 その当時、ダイビングというとスピアフ

ィッシングが主流だったので、魚を捕るこ

とが楽しくて一人で潜っていたのですが、

せっかくとっても威威張れないんですよ、

人だと(笑)。仲間ができると、今度は

一人でず~っとやってきたものだから、す

ぐにリーダー格になっちゃって。その頃、

静岡のほうで、魚突きダイバーを締め出そ

うなどといったトラブルが起こったのす。〟海は国民のものだ〟と主張しても、やはり

ちこち行く先で、問題が起こるんですよ。

 ダイバーが集結して、権利を通せないか

なと思っていたら、中部日本潜水連盟とい

う団体があった。1967年に発足してい

他団体なんですが、我々もクラブで加盟し

たんですよ。その1年前、1972年に中

部、関東、関西、PADIが集まって全日

本潜水連盟(JUDF)というものもでき

いました。まあPADIはCカードを発

することが目的ということで、しばらく

て脱会しましたけどね。ダイバーの力を

集して、自分たちの権利を主張しようと

うのが連盟の目的でしたから。全国組織

することで、我々の主張も通って、ダイ

ングの世界がかなり広がっていったのです。そのときの中部日本潜水連盟の会長が、

望月昇さんです。私は望月さんに惹かれま

してね、ますますダイビングにのめり込ん

でいったんですよ。」

 私が憧れていた望月さんはダイビングシ

ョップを開いていて、当然、土日は〝仕

事〟。だから、アマチュアの連盟の仕事を

するのが大変になってきたわけです。それ

で連盟の仕事を任されるようになっていっ

て、任されたからには一生懸命、大事に守

っていかなくちゃと、どんどん連盟の仕事

にはまり込んで行っちゃった。」

 中部日本潜水連盟の副会長、JUDFの

理事に就任したのが1979年、望月さん

が離脱し、その後を引き継いで佐藤さんが

会長になったのは1981年のことである。

このときJUDFの副理事長にも就任した。

「中部日本潜水連盟も関西潜水連盟もそう

なんですけど、ダイバーが個人で連盟に入

っているのではなくて、クラブが団体とし

て加盟しているんですね。そのクラブのト

ップが連盟に来るわけです。そのトップの

人たちに、指導ができるような技術を指導

いていかなくてはいけないだろうと。最初

から指導技術を持った人もいたのですが、

新しくクラブを作った人たちに対しては教

えてあげないといけない、共通のノウハウ

を教えていかなければいけないかなと考え

たんですね。」

 佐藤さん自身は1976年に所属してい

たクラブを移行させ、同年、経営していた

学習塾があった場所にスキンダイビング専

門店〈バディ〉を創設。海運会社の会社員

を続けながら、ボランティアでダイビング

​をしていた。

「クラブでも、新しい人が入らないと活性

化しない。継続させるためには新しい人が

入ってくることが必要なんですね。ですか

ら、専門店という形で、窓口を作ろうと思

って看板を出したのがショップとしての始

まりでした。そうしたら、最初は十数人の

クラブでしたが、100人近くにまでなっ

たんですよ。つまり100本のタンクを置

なくちゃならなかった。充てん所の許可

はないし、許可をとれるような場所ではな

かったので、ダイビングツアーのたびに夜

中、トラックにコンプレッサーを積んで海

岸でエアを充填していました。

 その頃、行っていたのが日本海の越前と

か三重県の紀伊長島でしたね。

 そうこうするうちに〈名鉄〉がダイビン

グ事業を始めたんですよ。それでダイビン

グ指導業務の委託を受けることになって、

当初は他団体のプロショップと1週間ずつ

 このとき佐藤さんは40歳、1983年

のことだ。日本では海の環境を守るために

もスピアフィッシングを自粛していこうと

いう気運が高まってきた頃だ。

「ダイビングスクールを始めるまでは、相

変わらずスピアフィッシングが目的で潜っ

ていましたね。とにかく僕は魚ばっかり、

見てたでしょ、あそこのカンパチはうまい

とか、イシダイがあの海に行けばいるとか

(笑)。あるときもっと南に行けばもっとで

っかい魚がいるよと、四国の沖の島に行っ

たのね。クラブ員を二十数人連れて。車で

水中銃を持ってダーッと向かって。足摺岬

の辺りから漁船に乗って沖の島へ行って潜

ったら、水深5㍍~10㍍ぐらいのところ

に、ぐわーって真っ赤なトゲトサカとかサ

ンゴとかがいっぱいなわけ。あ然としまし

たたね、あまりにもきれいで。〝海ってこ

んなんか〟って。イバラカンザシとか何も

かもがそれまで潜っていた海とは違ったん

プロに転向。
​そしてJCS設立

交替でやったんです。私はアマチュアじゃ

ないですか。ですから、これで飯が食える

とは思っていなかったし、手伝うといって

も一人では無理だから、クラブのメンバー

に手伝ってもらうでしょ。しかし来るのは

若い女の子ばっかりで、プールで水着。そ

の子たちにちやほやされて、お金までもら

える。こんなおいしいことはないなって、

恐縮していたぐらいですよ。この人たちが

クラブ員になってくれればおいしいなって、

考えたぐらいで。ただまあ、遊び半分な気

持ちだったんですね。

 3ヵ月経って、名鉄の担当者が、『佐藤

先生に全部お願いします』っていうわけ。

『私はこの事業に命を賭けてます』みたい

なことを言ったんですよね。

 この人が命を賭けているのに、私が遊び

半分では申し訳ないなぁと思ったんですよ。

名鉄がダイビング業界を活性化させてくれ

る大きな原動力になってくれているのに、

私が遊び半分ではいけないと。それで、『

わかりました、全部やりましょう。私も命

を賭けて付き合いますよ』って言ってね、

それまで勤めていた会社も辞めて、クラブ

員にも『明日から俺はプロになる!』と宣

言して、《バディ》を会社組織《アルタバ

ディマリン》に変更したのです。」

ですよ。

 それまで沖縄に行く人もいたんですが、

〝あいつらバカやないか〟って思っていま

した。沖縄に行くには10万円ぐらいかか

る。10万円あったら、近場で10回以上

10日以上潜れる。20回は潜れるかな。

 でも沖の島に行ったら、もう魚を捕って

いる場合じゃない。こういう海にも親しん

で、もっとダイバーを増やさないといけな

い、と思ったんですよ。それまではBCも

なかったし、ダイビングというのは体力勝

負だったのですが、ちょうど浮力調整機能

付きのBCが出てきたし、残圧計も出てき

ていた。

 それから沖縄にも行ったんですが、それ

でも私は水中銃を持っていくんですね、落

ち着くんですよ、気分が(笑)。でも、ほと

んど使うことはなく、海の中で魚を見てい

たんですね。でっかい魚が来ると、〝あれ

を突くとおいしいかなぁ〟と思いながら、

でもガマンしてみんなに見せて、(笑)。そ

うこうしているうちに魚に愛着が出てきて、

帰ってきて、漁港で水揚げされた魚を見る

と〝かわいそう〟なんて思ったりして。

 それが名鉄ダイビングスクールをやるち

ょっと前ぐらい。だからプロになってから

はフィッシュウォッチングですよ(笑)。」

 ボランティアからプロとして店を構える

まで実に20年余りが経ったわけだが、現

在のJCSを設立したのは、佐藤さんがプ

ロに転向してから3年後の1986年のこ

とだった。

「私がプロになる前、1981年に全日本

潜水連盟の副理事になって、東京に頻繁に

行っていたんです。それで東京や関西の現

状がよくわかったわけ。日本全国の潜水連

盟が集まっている全日本潜水連盟というの

は、実は中部地区だけ、ほかの団体が入り

込んでいなかった。どこのショップも皆J

UDFで、JUDF以外はダメというい感

じでした。

 JUDFも私たちと同じようにアマチュ

アの組織で、ダイビングショップといって

も、スポーツ用品店や釣具店の一角にあ

ような感じだった。それがどんどんお客さ

んが増えてくるにしたがって、プロフェッ

ショナルな対応がお店に求められてきた。

それでダイビングの専門店としてプロショ

ップをつくるのですが、もともとJUDF

​というのはアマチュアの組織ですから、

 以来、約1600名のインストラクター

を育て、その何十倍、何百倍ものダイバー

​を誕生させてきたJCS。現在、180店

スノーケリングの普及で
​ダイバーの裾野を広げたい

ショップをサポートするためのノウハウが

ない。それで東京ではPADIやNAUI

のショップがどんどん増えているわけですね。

 名古屋を中心とする中部日本潜水連盟を

任されている私としては、何とかこの組織

を守らなければなりません。だから、ダイ

ビングショップとしてのソフトあるいはノ

ウハウを地元のショップの皆さんに教えて

行くしかないと考えたわけです。でないと、

せっかくまとまっている中部日本潜水連盟

がどうにかなってしまう。私も1983年

にはプロの立場になってしまったので、せ

っかくダイビングを習った人たちが海外な

どへ行って、〟このカードを知らない〟と

いわれても困るわけです。その当時は中部

日本潜水連盟が加盟しているJUDFのC

カードを発行していたのですが。それで、

JUDFにフランスに本部があるCMAS

に加盟しようと持ちかけたんです。CMA

Sと提携すれば強くなれる。ところが、J

UDFはアマチュア組織だから、興味がな

かったんですね。

 そこで、1985年にまず中部日本潜水

連盟が単独で世界水中連盟(CMAS)に

加盟したのです。CカードにはCMASと

JUDFをクロスオーバーするわけ。でも、

CMASは」JUDFと提携したわけでは

ないから、それではいかんということにな

て、中部日本潜水連盟の教育部門を切り

離して、日本海中技術振興会、ジャパンC

MASということで、略してJCSという

名称のダイビング指導団体を設立すること

になったのです。それが1986年。

 それと並行して、国内ではまったく知ら

れていないCMASの名前を広めるのに躍

起になりました。そして1989年、世界

各国の連盟のトップが集まる世界水中連盟

総会の名古屋開催が実現し、三笠宮寛仁親

王殿下を総裁に盛大に開催され、大成功に

終わったのと同時に、一躍全国にCMAS

の名が広まったんです。このときお世話に

なった業界の関係の方々にはいまだに頭が

上がらないんですよ。」

のプロフェッショナルショップが加盟する

大所帯となっている。

 その一方で、最初の頃一人で潜っていた

という佐藤さんのあふれる冒険心を刺激す

るテクニカルダイビングにも力を注ぎ、1

997年にはテクニカルダイビングの指導

団体、TDI  JAPANも設立している。

「でも、やはりダイビングの裾野を広げる

ことが一番大事だと思うんです。需要はい

っぱいあるわけですから、どんどん広げて

いかなくては。そのために何をするか?

ひとつはスノーケリング。海の中を見るこ

とで海への関心が高まりますよね。タンク

を背負ってみたいという動機づけにもつな

がります。スノーケリングは結構事故もあ

るということで、沖縄の海岸では昨年8つ

ぐらい禁止のエリアも出ましたが、それは

スノーケリングの使い方をちゃんと教えて

いないから。教育ができていないから。私

たち指導団体がもう一度考え直して、スノ

ーケリングの普及をしていこうと動いてい

るところなんですよ。これは㈶社会スポー

ツセンターが中心になって動いていますの

で、非常にいいチャンスだと思います。

 これからもダイビングの素晴らしさを伝

えていけるよう、JCSとしてだけでなく、

いろいろな分野で頑張ります。」

 予定時間を大幅に過ぎるまでおもしろい

話がうかがえたので、読者の皆さまには読

みにくい誌面になってしまったことをお詫

びします。でも、今後もダイビングの素晴

らしさを多くの人々に知らせるために、と

​もにがんばっていきたいと強く思う。

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